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情熱と気楽さ

読んだ本、観た映画

「仏果を得ず」

小説

三浦しをんの本はこれまでに「まほろ駅前多田便利軒」「風が強く吹いている」を読んだことがある。
どの本の時にも思ったことだが、なかでも一番、この本が「登場人物の動きやしぐさの現しかたがマンガみたい」だと思った。銀太夫師匠など特に。

「風が強く吹いている」も、この「仏果を得ず」も、あまり知られてない文化・世界の裏舞台を書いている。
「風が強く吹いている」は、私自身が長距離陸上を見るのが好きで、箱根駅伝も馴染み深いものだったので、比較的おもしろく読めた。
「仏果を得ず」が舞台とする文楽を、私はまともに見たことはない。


冒頭から読んでも読んでも、なかなか物語の中に入っていけない。

これは私が文楽を知らないからなんだろうか?
でも、この作品と同じく、馴染みのない古典芸能を扱った成田美名子のマンガ「花よりも花の如く」にはとても引き込まれたし、主人公達が取り組む能楽にも興味を抱いたりもした。

「仏果を得ず」では、構成として、登場人物たちの状況や心情と、その時課題として扱っている文楽作品の中のそれとを似たような境遇に置いて、対比し、主人公に気づかせ、壁を乗り越えさせる手法が取られている……

……のだろうな、とは思うのだけど、文章ではそう書いてあるのだけれど、どうにも「文楽の物語の世界や心情」と、「主人公をとりまく世界や心情」が、ずーっと並べて置かれながら、「物語の主人公と自分は同じだ」と主人公の健に言葉で語らせながら、それでもひとつに成りきらずに、解離したままふよふよ浮かんだままになっているようで、どうにも居心地が悪かった。

「花花」では見事にハマっているその手法が、「仏果を得ず」ではハマっていないように感じるのは何故なんだろう、と、ずっと悩みながら読み進んだ。
マンガと小説の違いなのか。
作者が違うからなのか。
それとも私に三浦しをん作品から何かを受けとる感性が欠けているのか。

物語が解離したまま続く気持ち悪さは、最後の「勘平腹切の段」でようやく解消される。
あの場面はよかった。健の視点が勘平の視点に溶け込んだりまた現れたりする。長々と感じていた居心地の悪さが、そこのところでようやく消えた。


あと、細かいところでは、健や誠二の生い立ちが紹介される場面、ずいぶん唐突じゃないか? と戸惑った。
もっと以前に少し匂わせることが出来る場面はあったのに、なんでやらなかったんだろう。
あるいは、置かれた匂袋に私が気がつかなかっただけなんだろうかな。
もう少し軽く伏線めいた書き方がしてあれば、私は楽しく読めたかもな、と思った。




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